左耳の
音をなくしてしまった友人、特に、高音域に関しては全く聞き取れないという友人に、音楽の中で俺が感じた色彩を伝えるにはどうすれば良いだろう、と考える。音楽は、今、ここ、俺の目の前で、鼓膜のすぐ傍で、空気をふわせているのに、美しさを紡いでいるのに、それはどうやら彼の耳には届かないらしい。
酒を飲んでいる。いつもより多く、飲んでいる。俺の思考の矛先がこんなところを向いているのはそのせいか?体の脈が強く感じられる。俺の感性を通って様々に色付けされた音が一層、その鮮やかさを増している。
けれども、その鮮やかさは、彼には届かない。こんなにも、儚く、楽しげで、美しいのに。
俺は今、彼に依頼された、おすすめのジャズを選曲している。管弦楽器が彼の左耳に届かないことは、知っている。それは、先週、大阪出張で久しぶりに、本当に、久しぶりに、話をした時に聞かされた。右耳にしか届かない音が、彼の平衡感覚を大きく失わせることも、併せて。
彼は、音が表現する色彩の豊かさや、同じドという枠に閉じ込められてしまったそれぞれのドが持つ弾力、透明度、鮮やかさ、手触り、質量を聞き分ける感性を持っている。
いや、正確には、それは、持っていた、という表現が正しいのか。
俺は今、俺の中になんとも形容しがたい弾力を残しては通りすぎていくたくさんの音の中から、羽毛のような暖かさと、白磁器のような哀しみが共存するいくつかのタイトルを選ぼうと、スピーカーのボリュームを少しだけ上げて、iTunesのインターフェースと向き合っている。左耳を失った彼のために、左耳には聞こえないであろう音楽を、選んでいる。
この行為は果たして、お互いをより一層孤独にしてしまうのではないか、と俺は思う。
もし仮に、彼の左耳に届かない音楽が、お互いの孤独をいっそう深い群青に塗りたくってしまっても、それでも、やはり俺はこの美しさを、どうにか彼に伝えたいと思う。深い群青の水面に揺蕩う、スポンジのような柔らかさを持つ満月の燐光を、どうにか共有したいと、もがく。
暗闇は、黒く塗りつぶされているわけではない。
それは水素のように透き通った、無色透明の、つややかな潤いに満たされた湖のように、ただ静かに沈黙を守っているだけだ。