自分の感受性ぐらい
カーテン越しに揺れる洗濯物が奏でる音楽を掬ってそれをドレミファソラシドに置き換える事の出来る音楽家がこの世に一体どれほどいるだろう?
少なくとも、僕はそういう人間を一人しか知らない。
目の前に拡がる「世界」そのものに意味づけをするのは、ここに60億あるそれぞれの感受性でしか無く、水面に投げられた石から拡がる無数の輪に音楽的な美しさを拾い上げる奴もいれば、こたつの上に置かれたみかんに水色の哀しみを彩色する奴もいる。だから、美しいのか。だから、哀しいのか。僕はここに正しい文脈を用意できていないが、地球に散りばめられた60億の感受性は、東から昇った日が西に沈む、一般化された、通り一遍の、誰の目にも同じ、一つの共通世界には生きていない。
今、地面に円を描いて、その中心に立つ自分の姿を想像して欲しい。
何色のペンキを選んでも構わない。筆を使って良いし、その辺の小枝を取っても良い。大きさや、精度、円を描く方法について僕はひとつも言及しない。けれどおそらく、そのように描かれた円は、結果として、君をくるっとその内側に閉じ込めてしまう事になるはずだ。
円が、君を、閉じ込める。
本当に?
君は、閉じ込められたのか?それとも君が、閉じ込めたのか?もしかして円は、君をその内側に閉じ込めているのではなく、外側にある世界を丸々と閉じ込めているのではないか?君が描いた円の中で、太陽は果たして西から昇るか?それとも氷は沸騰するか?あるいは、洗濯物が淡いパステル調の音楽を奏でるか?
感受性とは、恐らくそのようなものだ。
僕は今、それぞれの描く円と円とが重なる場所で、感受性同士が同じ色の言葉をかわす方法について、考えている。